予測不可能な社会に向けて、教育現場の変化をより迅速に
1990年代初頭、海城中学高等学校では創立100周年を迎えるのを機に、新しい時代が求める人材の育成に向けた大規模な学校改革に着手することとなった。めざしたのは、「新しい学力」と「新しい人間力」を兼ね備えた人材の育成。大学合格実績を打ち出すための知識偏重型の教育から、課題設定や解決能力を養う「探究型の学び」を重視したカリキュラムへと移行させるとともに、それを実現させるための教育環境を30年かけて整備してきた。2年前には、大学なみの最新設備を備えた新理科館「サイエンスセンター」が完成。医学部をはじめ最難関大学理系学部への進学者数では全国屈指となった同校が示した理科教育・STEAM教育への意気込みは、中学受験業界の大きな話題となった。
そんな海城学園(法人)にこの春、海城教育研究所という新しい部署が創設された。所長に就任したのは、長年、教頭・校長特別補佐として改革を先導してきた中田大成先生だ。その趣旨について中田先生は「30年間にわたる改革は、およそ10年ごとの区分で実施しました。その都度、歴代の校長や現場の教師を交えた諮問機関を立ち上げ、情報収集、意見交換を重ねて、さまざまな学習プログラムを軌道にのせてきたのです。そのなかで何よりはがゆかったのは、関係者が忙しくてなかなか集まることができないことでした。教育現場は本当に忙しい。授業の準備、部活の顧問、問題作成・採点、保護者の対応、事務作業など……。『生徒にこういうことをやらせたい』という熱い思いを教員全員が持っているのに、その準備に専念する時間をつくることができないのです。その一方で、時代は、AIの台頭による超情報化社会へと突入しています。後れをとらないためには、次なる手に備えた調査・研究に専念できる役職や機関が不可欠であると理事会が考えたのです」
大学に入ることを目標にせず、社会との結び付きを意識する学びを
ところで、今から30年前、すでに東大合格者数ランキングの常連校となっていた同校が、これまでの教育体制の抜本的な見直しをはかることになったのはなぜなのだろう。「お恥ずかしい話ですが」と切り出した中田先生によると、当時、東京大学の学園祭で実施された「留年した学生の出身校ランキング」という或るサークル企画の調査で、あろうことか2年連続で海城が首位となってしまったことに端を発するという。「大学受験に特化した勉強に力を入れていた時代、確かに最難関大学への合格実績は伸びましたが、せっかく希望の大学に入ったのに、やりたいことがないという学生が増えてしまった。いわゆる〝燃え尽き症候群〟です。不名誉な結果に衝撃を受けたと同時に、建学の精神に掲げる『国家・社会に有為な人材の育成』に反する教育を進めていたことに気づかされたのです」(中田先生)
そこで、「新しい学力」を養成するために、初めに動き出したのが社会科だ。生徒一人ひとりが興味・関心のあるテーマを設定して、社会問題につながる課題研究に中学全学年で取り組んだ。調査の過程では、現場で働く人々に取材することを課し、「聞く力」を養うだけでなく、礼儀や倫理感も意識させた。そして、研究の集大成として中3では卒業論文(400字詰め原稿用紙30~50枚)を仕上げ、発表も行う。
一方「新しい人間力」を育成するために、「プロジェクトアドベンチャー」「ドラマエデュケーション」といったコミュニケーション能力や仲間と協働する力を養う体験型のプログラムを導入。高校募集を停止した2011年には、中学で帰国生入試も開始し、生徒の多様性を広げるとともに、英語教育や国際教育の強化にも力を注いできた。さらに、2015年からICT環境の整備を進め、2017年には教科の枠を超えて生徒たちが興味・関心に応じて選択できる探究学習プログラム「KSプロジェクト」を立ち上げている。
向き合う相手の反応を感じ取り、瞬時に判断し行動できる人に
予測不能な時代だからこそ、その場で瞬時に判断して行動に移し、反応を見ながら解決に導いていくセンスを、生徒たちには身につけてもらいたい」と中田先生は言う。
そうした「瞬時に判断できる力」の育成を可能にする体験学習を既に海城では導入している。中学各学年で実施している「ドラマエデュケーション」がそれだ。これは、文字通り、演劇的な手法を用いて人間関係力や想像力を養う体験型の学習プログラムである。演劇の専門家たちの力を借りて、海城では15年以上前からこうした授業が実施されている。このプログラムの中には、「即興力」を養う活動が既に部分的に組み込まれている。たとえば、中1で実施している「安全ワークショップ」の授業では、指定された場面(テーマ)でのロールプレイをグループで演じるが、事前の説明では聞かされていない登場人物が突如として現れる。具体的にはこんな具合である。「友達と下校する途中で泣いている迷子がいたら?」というテーマが与えられた場合、生徒たちは、ひとまず子どもに声を掛けようとするだろう。ところが、そこに俳優が演じるおばさんが突然現れて、「子どもを泣かすようなことをしちゃ駄目でしょ」と怒鳴ってくる。はたまた、「通行の邪魔」と文句を言う若い女性、騒ぎをスマートフォンで撮影する若者など、迷惑な横やりが次々と入ってくるのだ。「想定外の事態にどう挑むか」「仲間うちで自分が果たす役割を即座に判断し、行動に移せるか」「周囲の反応を見ながら臨機応変に対応できるか」といった力が、数分間の芝居で試されるのだ。「まさにこれが、これからのVUCAの時代で求められる力といえるのではないでしょうか。この30年間、時代のニーズに応えるべく、さまざまな取り組みを行ってきました。すでに軌道にのせたこれらの学習プログラムを、どのように更新していくべきか、それを考えるのも教育研究所が取り組むべき課題のひとつだと考えています」と中田先生は述べた。
教師も生徒もAIを使いこなせるように、ICT教育の拡充に拍車をかける
全教室に電子黒板機能付きプロジェクターを設置し、校内全域でのWi-Fiの整備、全教員・全生徒へのデバイスの配布、ICT支援員による技術サポートなど、ICT教育促進に向けた整備はすでに完成させている同校。さらに、新学習指導要領の施行に伴うカリキュラム改訂においては、「情報」の学習プログラムを中高ともに刷新した。「とはいえ、新たな課題は次々と生じています。AIを使いこなしながら、AIに負けない能力を養うには、教員も学びアイデアを出していかなければならず、場合によっては最先端を走る第一人者の協力を求める必要も出てくるでしょう。2025年度の大学入学共通テストでは新教科として『情報』が加わるので、その対策もしなくてはなりません。生成AIを活用した新しい授業や、教員の業務の効率化など、教育研究所として手がけなければならないことは山積みです。30年に及ぶ学校改革の過程で培ってきた人脈を生かしながら、『生徒のために先手を打つ』改革をより推進させていきます」と中田先生は、その決意を示した。
海城の歴史や伝統を知り、アイデンティティーを確立する取り組みも
そして、これから取り組むべき課題の一つとして、中田先生は「海城が育てたい人物像を生徒自身が理解し、自分がいずれチェンジメーカーになるという自覚を持てるような、アイデンティティーの確立を促す取り組みが必要なのではないか」と語る。1891(明治24)年に海軍予備校として創立された同校。日本が国際社会に羽ばたこうという時代に、いわば国家を担うエリートを養成するために誕生した学校だ。創立者は佐賀藩出身の元海軍兵学校教官の古賀喜三郎。佐賀藩の若き軍人であった喜三郎は、長崎に来航していた英国軍鑑に藩の修習生として派遣され、英国海軍士官から教育を受ける機会を得た。さらに36歳のときには北米への遠洋航海に従事して渡米。わが国とアメリカの圧倒的な国力差を目の当たりにすることになった。「藩という意識がまだ根強い時代に、国家を意識した人物だったといえます。だからこそ、日本が列強国の支配を遠ざけ、民族の尊厳を守るには、優秀な人材を育成することこそが急務だと考え、教育に尽力したのです。そういう創立者の思いや、現在に至る学校の歴史や伝統を肌で感じられる資料館のようなスペースを設置したり、授業に取り入れたりできないかと模索しています」と中田先生。最後に、「広い世界に目を向け、新しい価値観を創り出していかなければならないという点では、130年前と現代とは共通する点が多いように感じます。卒業後、本校で学んだことを誇りに思えるような、そんな学校にしていくことが、『社会に貢献しよう』という原動力にもなっていくと確信しています」と結んだ。